大正ロマン館誕生物語

大正ロマン館が生まれて25年以上が過ぎ、この施設を生み出した記憶が確かなうちに書き留めておこうと思います。 思えば若くして観光協会の役員を仰せつかったのがこの施設との切っても切れない縁を生むことになります。親子ほど年の違う大先輩方と一緒に汗をかき、時には激しい議論もし大きな声で笑い、多くの丹波篠山を愛する人達の夢の詰まった施設であることは言うまでもありません。そして今日も大正ロマン館はその夢をエネルギーにして多くの方々をお迎えしています。


丹波篠山市商工会会長・㈱アクト篠山代表取締役 圓増亮介

①「案内所だけやなしに、全部頼まれてしもてなぁ。」

すべてはこの西尾会長の言葉から始まった。

時は平成4年、町役場としての役目を終え、その後の建物施設の利用方法も決まらないうちに当時の篠山地方観光協会会長 西尾昭氏は当時の町長新家茂夫氏に観光案内所をこの場所でやらせてほしいとお願いに上がられた。

その夜、観光案内所(旧ガス水道課の建物で現在は駐車場)奥の狭い会議室の呼び出されたのは私を含む理事部会長の面々。

奥山の徳さん、岩本の正ちゃん、吉田のひとっさん、中西の薫ちゃん・・・

「えー? 全部て。建物全部ウチでやるんですか?」と異口同音の驚きが会議室に響く。

しかし当時はホロンピア88後で今後の観光をなんとかしなくてはならないという気持ちが大きくあり、驚きのあとは一気にみんなの夢が湧き出ることになる。

こんなんしたい、あんなんしたい等々時間を忘れるくらいに夢を語り合ったことを思い出す。そして力強い西尾会長の言葉「行政との折衝や予算取り等はすべて任せてくれ」だった。

多くの夢がひっついては離れ、またひっついては大きくなり、最終的に観光案内所、お土産販売、レストランを行うことになる。

ただ建物施設の名前がなかなか決まらない。イメージとしては大正時代の建物なので「大正ロマネスク」というコンセプトから「大正ロマン漂う○○館」や「丹波篠山物産館」など候補には上がるもこれと言ったものがない中、西尾会長が「圓増くん、若いんやから何かええのんないんこぉ」と言われ、

即座に返答したのが「ごちゃごちゃ飾りを付けずにシンプルに大正ロマン館でどないです?」

西尾会長が「それ!それおもろい! それいこ!」とこれも即座に返答されたのは、きっと良いとか悪いとかではなく時間も無いし半ば諦めからの返答だったのかもしれない。

施設名称は「大正ロマン館」と決まり、観光案内所もその名称で決まり、お土産販売コーナーも特に違う名称は使わないと決まったのだが、レストランは別の名称にしてはとの声が多く、これもいろんな候補が出るも決定打がなく、痺れを切らした私が半分ダメ元で「ロマン館なんやから、ろまんていでいいですやん!」と言うとこれがタイムリーヒットとなり、結果として建物の名称もレストランの名称も私が名付け親となってしまうことになる。

意図せず名付け親になってしまったプレッシャーたるもの相当なものだった。

成功すれば成功したで

「へぇ。そやったんけ。しらんかったにぃ」くらいの薄い存在なんだろうが、

失敗でもすれば

「せやさかい言うたやろ。けったいな名前付けてやさかいやに」とか

「ほれみてみ。言わんこっちゃないに」とか、

こきむきに言われるに違いないと思うと落ち着いてはおられず、部会長である程度業務を分担したにも関わらず全てに関わることになる。

今から思うと最年少の私が名付け親になることは失敗した時の保険、つまり「若い衆が決めたことやさかいこらえたって〜」だと割り切って気楽にやればよかったのだろうが、30過ぎの若造にはそんな余裕もなく寝る時間いや呑む時間も割いて奔走した。

②「どんなメニューにすんねん」「特産品使わなあかんし」

そんな議論の毎日だった。建物の雰囲気から洋風レストランをイメージしてはいるものの、その道では素人が集まってもメニューは決まるはずもない。

しかしコーヒーはオシャレに提供したいと神戸北野の珈琲店まで視察に行き、とんぼ返りでコーヒーカップのデザインを決める話し合い。

こだわってたのは美術関係に煩い徳さんだった。

「どうせなら、立杭焼の高級カップにせなあかん」

「せやけど、徳さん、そんな費用どこにもないでー」

そしてカツサンド、それも篠山牛のビフカツサンドをメニューにしたいと、これも噂を聞きつけた店に食べに行き、あーでもない、こーでもないの時間が費やされていった。

今と違ってインターネットも整備されていない中での情報収集はホント大変だった。

喫茶メニューに関しては喫茶店経験のある武山のねぇーさんにすべてお願いすることで決着。その後ねぇーさんには喫茶メニューのみならずレストランメニューに関してもお世話になることになる。

そういえば猪肉を使った「イノシシ味噌チーズフォンデュ」はサンプルすら作ることはできなかったが、正ちゃんにはずっと「亮さんよ、それどないして作るんじょ」「それやったら絶対に流行るじょ」と言い続けて頂いた。

私にとってはほんの思いつきでぼたん鍋の最後あたりの濃いめの味噌出汁にとろけるチーズをたっぷり入れて、串刺しで焼き上げた猪肉をそれをつけて食べるというものだった。

多くの時間を費やすも喫茶メニュー以外のメニュー作りは遅々として進まない状況だった。

そこでそんな状況を見ておられた西尾会長の出番である。

「万為のイクちゃんに頼んでみよか」

日置「万為楼」の主人で観光協会理事でもあった中西氏にメニューと調理監修をお願いすることで春のオープンに間に合わせることとなった。

当初の洋風レストランから一気に和食レストランへの転換だった。

黒豆や栗を使った丹波篠山ならではの和食メニューや大納言小豆のぜんざい等、先に用意されたテーブル等の調度品とはミスマッチではあったが

「これも大正デモクラシーやな」などという実際に見たこともない大正時代を強引に言い訳にしたことを思い出す。

③「え〜?陳列台無しって」

案内所のカウンター、レストランのテーブルにフロアの丸いテーブル等多くの備品が整いつつある中、西尾会長からの一言。

「すまんけどのぉ、お土産販売する台やらケースまで予算が回らんのや。なんとかならんけ」

お土産販売の部門を特に任されていた私と吉田のひとっさんは、これを聞いて唖然となる。

高校の文化祭のバザーじゃあるまいし長机で販売するわけも行かず、それなりのちゃんとした物を使わないとこの建物や他の備品と釣り合うはずもない。

「もし無理なら今年はお土産販売はやめよか? 来年からでもええで」と珍しく弱気な西尾会長の言葉に

「何言うとってんですか。みんなでなんとかします」と強気で返したものの正直困ったのは確かだった。

これを聞くこと一ヶ月前には市内の業者を回って新しくできるロマン館のお土産販売コーナーで販売してもらえるよう契約をほぼ済ませていた。

これがなかなか大変だった。卸販売するということがなかったお店への説明や卸値価格の交渉は言うに及ばず、問題はそもそも認知度全くゼロの大正ロマン館で物が売れるのかどうかという業者が感じられている不安だった。

説明の際には

「物を売るだけじゃなくて篠山の観光のために必要なんです。助けてほしいんです」「将来は間違いなく観光の拠点になります」とその不安を消すための話をしたり「おしゃれな販売台で陳列して売るさかいに、もぉちょい安うしてぇな」と値段交渉して来た身にとってちゃんとした販売台がないってことはとんでもないことに違いなかった。

今だから言えるが正直言って観光の拠点になるかどうかなんて自信はなかった。というのも当時はまだまだ「観光アレルギー」が商店街には残っており「観光なんかで食っていけるわけない」という声も多かった。「お前ら若造に何ができるんや! 観光なんかくそくらえじゃ!」と篠山人御用達の焼き鳥屋「むさし」で絡まれたことも幾度かあった。逆にそう言われれば言われるほどやる気が出たことは言うまでもない。

ひとっさんと悩みながらも「とりあえず知り合いの業者にあたって使わなくなった備品がないか聞いてまわろうや」ということになる。

灯台下暗しとはよく言ったもので実は私の店の倉庫に陳列ケースが2台眠っていた。この年の前年に店舗改装をし「まだ使えるかもしれない」と廃棄せずに倉庫に保管していたものだった。

残り4台の販売台も探せば見つかるもので、西尾会長やひとっさんの顔の広さに感謝感謝。

しかし寄せ集めは所詮寄せ集め。特に色の違いは雰囲気を壊すものなのだが、ここで諦めないのもひとっさんだった。

「塗ったらええやれぃ」の一言。それがオープン一ヶ月前だった。

人柄なのか仕事柄なのか、この吉田のひとっさんの持つ人的ネットワークには驚くばかりだった。井の中の蛙状態の私にとって計り知れない刺激であり経験であったことは言うまでもない。彼がいなければ間違いなく商品はほとんど店頭に並ぶことはなかっただろう。

④「どうせならええもん飾らんかい。ワシが寄付したる!」

この気風の良い言葉はめったに話すことがなかったにも関わらず私のことをよくご存知だった大先輩 福島のおやっさんの言葉。古く狭い観光案内所時代からよく来られてたのは存じていたがこの言葉を聞けるとは思わなかった。

観光案内所に関しては専用のカウンターも整ったもののちょっとした調度品は在り来りの物しかなかった。
また今と違い携帯やスマホが一般的じゃなかった頃、時を知るには腕時計か施設にある掛け時計や置き時計が必要であり、古い観光案内所にも時間こそ分かるが多くの方が訪れる玄関に相応しいかというと決してそうではない掛け時計があった。

ある日古い観光案内所で福島のおやっさんに呼び止められ

「圓増くんよ。このきったない時計、向こうに持って行くきかいな?」と。

「はい。担当ちゃうんですが、これをそのまま使うんやと聞いてます。新しくする予算もないらしく。」

すると次の言葉は

「お前! あほか! これから篠山の玄関になるとこに なんちゅうもん飾るねん!カネがないんやったら ワシが寄付したる!」

ほんまビビるというか背筋がシャキッと伸びたのを思い出す。

担当だった徳さんのまるで子どもに帰ったような喜びようは今でも脳裏に焼き付いている。

寄付していただいた立派な時計は今もロマン館入ったところに飾ってある。ただ残念なことに機械の不具合で時を刻むのは現在休止している。

観光案内所ができてもそれ以上におもてなしと知識が大切で、知識に関しては徳さん、薫ちゃんの力が大きい。「そこまでいるんかいな」と思うくらいの知識量を案内所に注入することになる。

ここでおもてなしを含め大きな貢献をしていただいたのが西尾のれーこさんである。名字が会長と同じでこれも何かの縁を感じたものだった。れーこのさんの頑張りは観光案内だけではなくお土産販売にも大きな力となる。またれーこさんの人のつながりがロマン館の発展を支えることになる。

そして観光案内と言えばボランティアの観光案内グループ「ディスカバーささやま」のリーダーで創設者 山内のけーさんである。

※篠山の特徴として人を呼ぶ際「名字」+「の」+「○○さん」と呼ぶ。源頼朝や平清盛を呼ぶ際に「の」をつけるのと似ている。

けーさんに至ってはいつも出会うたび元気な声で

「よっ!亮ちゃん! 頑張っとるのぉ。親父さん元気こぉ?」だった。

このフレーズワンセットで「こんにちわ」であり「おはよう」を意味していた。けーさんは誰に対しても是々非々で物を言われる大先輩の一人でドヤされる時もあったが

「遠慮せんと、若い考えで思いっきりやったらええんやじょ!」

「間違いないしにこれからは観光の時代になるさかいに!!」の声にはいつも勇気づけられた。ディスカバーささやまさんとの連携も新しい観光案内所を起点としてより強固なものとなっていった。

⑤「けったいな名前付けてべっちょないんけ?」

とかく新しいことをするといろんな声が聞こえてくるもので、役場だった場所を観光拠点にするとなると必ずしも追い風ばかりではなかった。

役場を壊してシティホテルを建てるという話もあったり、すべての人に歓迎されたものではなく、レストランメニューやコーヒーの価格も民業圧迫してはいけないとの理由で全て高めの設定だった。

今でこそその名称に慣れて違和感はないと思うが、

「けったいな名前やね。ロマン館て」という声が間接的に聞こえてきたものだった。

きっと今の時代ならSNSで嫌ごとを書かれるんだろう。

一番キツイ批判は

「自分らの商売だけのために勝手なことやっとる!」だった。

この言葉にはモチベーションが下がるばかりで投げ出したくなりそうな時もあったが、そこは山内のけーさんや福島のおやっさんらの励ましの言葉に随分助けられた。

「批判されるっちゅうことはほんまもんやいうこっちゃ!そんなもんに気ぃとられとらんと気張らんかい!10年経ったら見返したれ!」

このおやっさんの言葉は今も心に刻まれたままである。

決してスタートダッシュ的なオープンではなかったが、案内所や売店、レストランのスタッフのボランティアに近い頑張りに業績は徐々に上向きになり、秋の味覚シーズンには品切れ続出にもなったりとなんとか順調に進んでいった。

年末あたりだっただろうか、西尾会長の提案で観光協会は法人でないので事業収入が増えてくるときちんとした法人組織にすべきと、行政の出資をお願いし有限会社大正ロマン館が誕生することになった。

一方その当時 篠山町商工会は会館1階の店舗運営のためにいろいろと議論を重ねていたが、平成7年6月 有限会社大正ロマン館に出資することで新しく会館店舗も運営できる会社「クリエイトささやま」を観光協会、行政と協力して設立することになる。

西尾会長が初代社長となり、その後 堀のやっちゃんが社長に就任。

10年以上に渡り敏腕社長として大正ロマン館を丹波篠山の観光拠点として確立された。

大正ロマン館だけではなく、周辺でのイベントの仕掛け人としての喜多の茂ちゃんのフットワークの軽さは素晴らしかった。今の味祭りがあるのも茂ちゃんのおかげと言っても過言ではない。
茂ちゃんのあの人使いの上手さは何だったんだろうと思う。断りきれずに気がつけば汗をかいてフラフラになりながらもイベントの裏方をやっている自分も含め多くの姿があった。

平成21年にはまちづくり会社(TMO)として設立されて市民センター等を運営していた「株式会社まちづくり篠山」の解散に伴い、その事業受け継ぎ新たに「株式会社アクト篠山」と社名変更し、小林のせーてんさんを社長に迎え昭和百景館の開店等新たな事業展開を行う。
その後、青っきゃん、そして昨年私がその社長に就任することになった。

振り返れば クリエイト時代には喜多の茂ちゃん、奥山のしろーさん、奥山の徳さん、アクトの時代には高田のけいちゃん、畑のかずやさん、彼らみんな篠山町商工青年会議(現 商工会青年部)のメンバーでデカンショ祭の裏方で汗をかいてきた篠山大好き人間ばかり。
言い換えればデカンショ祭を創り上げてきた人ばかりである。
故に「仲良しグループでやっとる!」という批判も聞こえたが、そんな批判を遥かに超える多くの仲間の夢と郷土愛がぎっしりと詰まった「大正ロマン館」という他に類を見ないシステムソフトウェアが「元町役場」というハードウェアにインストールされ、その「元町役場」は丹波篠山の顔に生まれ変わった。

10年後50年後そのずっと先もハードウェアの修繕を行いながら時代にあったバグ修正やアップデートを繰り返し、どの時代おいても丹波篠山に来られた方のみならず丹波篠山市民にも愛される「大正ロマン館」でありつづけることを願う。

堀のやっちゃんのちょっとカスレた声が聞こえる。

「こら!亮介! やいやい言うとらんと、てったわんかい!!」

※奥山の徳さん(奥山徳雄氏) 岩本の正ちゃん(故岩本正一氏) 吉田のひとっさん(故吉田等氏) 中西の薫ちゃん(中西薫氏)
武山のねぇーさん(武山光枝さん)  万為のイクちゃん(故中西為久男氏)
福島のおやっさん(故福島博氏)  山内のけーさん(故山内啓司氏) 西尾のれーこさん(西尾玲子さん)
堀のやっちゃん(故堀泰尚氏) 喜多の茂ちゃん(故喜多茂夫氏) 奥山のしろーさん(故奥山史郎氏) 小林のせーてんさん(小林正典氏) 高田のけいちゃん(高田啓司氏) 畑のかずやさん(畑一弥氏) 青っきゃん(青木直氏)

あとがき
ふと目の前にあるパソコンを見て感じたのが、大正ロマン館はOSなんだと。何度もアップデートしてきたWindowsのように。

元「町役場」という無機質なハードウェアにインストールされたこのOSは、丹波篠山を築いて来られた多くの先輩方の「夢」と「郷土愛」が書き込まれたプログラムソースで出来ているに違いないと思います。
文中ニックネームで呼んで失礼とは思いましたが、これもやっちゃんに言われた「今日からやっちゃんと呼べ!!」という篠山町商工青年会議時代の決め事を今も守っています。

行政は合併を繰り返して丹波篠山市になりましたが、反面伝えてこられなかった事も多くあると思います。

歴史を知らないと未来への道順を誤ることもあります。

大正ロマン館は一度も建造されたことはなくそこにあったのは元「町役場」の建物です。

言い換えればこの建物を「大正ロマン館」として維持できるのは、先に書いたプログラムソースでしかないことを少しでも分かっていただければ幸いです。

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