大正ロマン館誕生物語 ②

レストラン「ろまんてい」編

意図せず名付け親になってしまったプレッシャーたるもの相当なものだった。

成功すれば成功したで

「へぇ。そやったんけ。しらんかったにぃ」くらいの薄い存在なんだろうが、

失敗でもすれば

「せやさかい言うたやろ。けったいな名前付けてやさかいやに」とか

「ほれみてみ。言わんこっちゃないに」とか、

こきむきに言われるに違いないと思うと落ち着いてはおられず、部会長である程度業務を分担したにも関わらず全てに関わることになる。

今から思うと最年少の私が名付け親になることは失敗した時の保険、つまり「若い衆が決めたことやさかいこらえたって〜」だと割り切って気楽にやればよかったのだろうが、30過ぎの若造にはそんな余裕もなく寝る時間いや呑む時間も割いて奔走した。

「どんなメニューにすんねん」「特産品使わなあかんし」

そんな議論の毎日だった。建物の雰囲気から洋風レストランをイメージしてはいるものの、その道では素人が集まってもメニューは決まるはずもない。

しかしコーヒーはオシャレに提供したいと神戸北野の珈琲店まで視察に行き、とんぼ返りでコーヒーカップのデザインを決める話し合い。

こだわってたのは美術関係に煩い徳さんだった。

「どうせなら、立杭焼の高級カップにせなあかん」

「せやけど、徳さん、そんな費用どこにもないでー」

そしてカツサンド、それも篠山牛のビフカツサンドをメニューにしたいと、これも噂を聞きつけた店に食べに行き、あーでもない、こーでもないの時間が費やされていった。

今と違ってインターネットも整備されていない中での情報収集はホント大変だった。

喫茶メニューに関しては喫茶店経験のある武山のねぇーさんにすべてお願いすることで決着。その後ねぇーさんには喫茶メニューのみならずレストランメニューに関してもお世話になることになる。

そういえば猪肉を使った「イノシシ味噌チーズフォンデュ」はサンプルすら作ることはできなかったが、正ちゃんにはずっと「亮さんよ、それどないして作るんじょ」「それやったら絶対に流行るじょ」と言い続けて頂いた。

私にとってはほんの思いつきでぼたん鍋の最後あたりの濃いめの味噌出汁にとろけるチーズをたっぷり入れて、串刺しで焼き上げた猪肉をそれをつけて食べるというものだった。

多くの時間を費やすも喫茶メニュー以外のメニュー作りは遅々として進まない状況だった。

そこでそんな状況を見ておられた西尾会長の出番である。

「万為のイクちゃんに頼んでみよか」

日置「万為楼」の主人で観光協会理事でもあった中西氏にメニューと調理監修をお願いすることで春のオープンに間に合わせることとなった。

当初の洋風レストランから一気に和食レストランへの転換だった。

黒豆や栗を使った丹波篠山ならではの和食メニューや大納言小豆のぜんざい等、先に用意されたテーブル等の調度品とはミスマッチではあったが

「これも大正デモクラシーやな」などという実際に見たこともない大正時代を強引に言い訳にしたことを思い出す。

続く

※武山のねぇーさん(武山光枝さん)  万為のイクちゃん(故中西為久男氏)

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